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朝陽に浮かぶドゥブロヴニク旧市街 |
アドリア海の宝石、なぜこの町がそう呼ばれるようになったのだろうか。
本当のところは分からないが、宝石と呼ばれるのにも肯ける理由をいくつも上げられるほど素晴らしい、世界遺産都市だ。
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ドゥブロヴニク旧港 |
先ずは、世界遺産に指定されたほどの、完全に保存された中世都市の魅力をあげたい。全ての建造物から、道路の舗装まで町そのものが生きている中世のテーマパークだ。首都であったドゥブロヴニクの堅牢な城壁内には華麗な大建築が立ち並び、壮観だ。
次にあげられるのは、民主主義と都市文化のすばらしさだ。暴力が支配した中世においてそれらを守り通した功は、燦然と輝く宝石にふさわしい。
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海に浮かぶ要塞都市は「アドリア海の宝石」のよう |
最後の理由は、外から町を眺めてみればよく分かる。ドゥブロヴニクを見下ろすスルジュ山の上から、またもっと手軽なアプローチとしては、南西のツァブタット空港から市街地へと続く国道上の、ちょうど市街への分岐地点から、町を眺めて欲しい。それはまるで真っ青なアドリア海に浮かぶ、金で縁取りされた真紅のルビーのように見えるからだ。
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プローチェ門は堀を跳ね橋で通過して入る |
城壁内に入るには4つの門のどれかを通ることになる。海に開かれた2つの門か、厳重な跳ね橋を通過する東西1つずつの小さな門のいずれかだ。それは今でも変わらないので、旧市街はある意味、現代の陸の孤島に近い状態になっている。
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町のレプリカを掌に載せた守護聖人「聖ブラホ」が侵入者を見張る |
厳重に堀で隔てられ橋を渡された東側のプローチェ門から入ってみよう。町の入口には守護聖人聖ブラホの像が進入者を見張るように配置されている。このあたりから見る旧港は、巨大な倉庫、造船所を擁し、かつての繁栄を想起させる一大パノラマだ。
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壮麗なスポンザ宮殿
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ドミニコ会修道院の脇を通って進むと、ルージャ広場に出る。右手には、美しいゴシック・ルネサンス様式のスポンサ宮殿が聳え立つ。その時計塔は町のシンボルだ。左手にはカトリックの聖ブラホ教会がバロック様式の華麗な姿を見せている。
ルージャ広場からまっすぐ市街を貫く目抜き通りプラツァが伸びている。向かって左手が7世紀以来の旧市街、右側が中世に入って拡張された新市街だ。プラツァ通りには各種商店、公共施設、観光客向けのみやげ物店やカフェなどが並んでおり、ほんの数分で西側の入口ピレ門に到着する。
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聖ブラホ教会 |
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時計塔。平時は時を告げ、町の一大事には警報を発する。 |
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オノフォリオの大噴水は今でも上水道として機能している |
ここにはフランシスコ修道院、中世の上水道の吐出口であるオノフォリオの大噴水がある。その脇の小さな聖スパ教会と共に、17世紀の町を破壊し尽くした大地震にも耐え、古き姿を伝えている。
城壁の上を歩くと、ドゥブロヴニクの置かれた環境が良く分かるので、1周1940メートルの道のりではあるがぜひ歩いてみたい。片方は青海原に面し、もう片方にスルジュ山を背負うこの町は、両者の間に広がる自然の真っ只中に浮かび上がった一つの点に過ぎないことがよく分かる。ピレ門のすぐ上からは、一直線に伸びるプラツァどおりと聳え立つ時計塔が美しい。町並みを見渡すと、赤い瓦屋根に真新しいオレンジのものと古びたベージュががったものと2種類があることにすぐ気がつくであろう。
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モザイク状の新しい瓦と古い瓦は、戦禍の深刻さを物語る |
これは背後のスルジュ山からユーゴ軍の砲撃を受けたとき、屋根が損傷した建物と無傷だった建物とである。真新しい瓦の多さから、被害の甚大さが窺い知れる。ここから城壁は山の斜面を登っていく。最高地点のミンチェタ砦から見る町の美しさは一番の見所だ。この風景に見覚えに見覚えるある方も多いのではないだろうか。有名なアニメ映画「魔女の宅急便」(宮崎駿)で、魔法使いキキが修行した町もまたドゥブロヴニクであった。
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ミンチェタ砦からの素晴らしい町の全景 |
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大聖堂、聖ブラホ教会、イエズス会教会の重なり合い |
歩き進むにつれ、アドリア海、スルジュ山、大聖堂、時計塔、数々の修道院、砦の位置関係が少しずつ変わり、それに港や路地の風景が絡んで、常に新しい驚きが連続する。
城壁はやがて港の上を抜け、海に面した部分に入る。このあたりは最も市街の最も古い地域でもあり、路地が複雑に入り組みどことなくのんびりした田舎町の雰囲気だ。大きな岩塊の上にさらに高く城壁は積み上げられてあり、荒波と海賊とを1世紀以上撥ね付けてきたことにも納得させられる。ロビリェナッツ砦が見えてきたら楽しい城壁の旅も終わりである。
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海沿いの城壁上の散歩 |
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岩塊上の高い城壁は荒波を寄せ付けない |
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西の入口ピレ門も厳重な作り |
ドゥブロヴニクを語るにあたり、1000年以上にわたり文化と自由を愛し、独裁を排除しつづけた、都市の歴史に触れないわけには行かない。
ドゥブロヴニクの歴史は、7世紀、スラブ人に追われて当時島であったこの地に逃げ込んだローマ人の都市国家「ラグーザ」に始まると言われている。断崖と城壁に守られたこの都市は、幾多の紛争を乗り越え、貿易都市として発展した。12世紀には平和的に流入してきたスラブ人がこの国を支える主力となり、国名もスラブ語のドゥブロヴニクとなっていく。ドゥブロヴニクは、バルカン半島の海の玄関口の役割を担い、アドリア海の海運をヴェネチアと競い合いながら、多大な富を蓄積した。
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プラツァ通り |
都市を守るため、蓄財は強固な城壁と砦の建設に投入された。ロヴリェナッツ要塞の入口に掲げられたラテン語「Non bene pro toto libertas venditur auro(あらゆる黄金を持っても自由を売るは正しからず)」に、そのすべてが集約される。ドゥブロヴニクでは、共和国滅亡までラテン語が公用語として使われていた。
この間、小さな都市国家は堅牢な城壁だけで町を守ることができたわけではない。その時代時代の隣接する強国に宗主権を認め、税を払いながら自治を獲得していたのである。
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高層建築が集積した市街地の間を細い路地が網目の ように張り巡らされている |
ドゥブロヴニクは、最先端の都市国家であった。現在我々が当然に持っているシステムにも、世界ではじめてドゥブロヴニクで発明されたものがいくつかある。たとえば、13世紀には伝染病患者の隔離施設が建設され、法で隔離が規定された。また14世紀には、医師と薬剤師によるネットワークが形成され、市民の健康を管理するシステムとして機能している。この当時から元首(総督)を1ヶ月交代で選出するという、きわめて特殊な統治形態を編み出している。総督はこの1ヶ月間、個人の活動を自粛し、公僕として尽くすのである。民主主義を守り独裁を防ぐための知恵である。
さらに15世紀始めには、市内の全ての道路を舗装し、上下水道を整備、市が清掃員を雇って衛生環境を強化した。このとき作られた上水道は現在でも立派に機能している。福祉充実の観点では、15世紀に孤児院が建設され、また中世ヨーロッパでは当然であった奴隷貿易が禁止されている。
海運・貿易国家としての発展は一時はベネチアと比較されるほどにもなった。そのためドブロブニク人は今でもヴェネチアに対し強い対抗意識を持っているほどだ。
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スパ教会入口の古いラテン語の碑文
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1806年、共和国に運命の瞬間が訪れる。当時の貴族は、ナポレオン率いるフランス軍の領内通行要求を断る気概もなくそれを受け入れてしまった。1000年の歴史で初めて外国軍が城壁内に進入した。その2年後の1808年、共和国はフランス軍のマルモン将軍よってに取り潰されたのである。
堅い守りと巧みな政治力とで1000年以上の長きに渡り砲火を逃れてきたドゥブロヴニクだが、1991年のユーゴ内戦でドゥブロヴニクは歴史上初めて外国軍の攻撃を受けた。市街地には少なからぬ被害があったが、市民の熱意もあり見事に復興し、その古き良き姿を今に伝えている。
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