"地中海,クロアチア,ダルマチア,スプリット,dalmatia,split"
ローマ帝国の遺跡を取り込んだ世界遺産都市
Split
スプリット
(クロアチア)♦
Centro
Storico

ナロドニ広場の時計塔

でスプリット港に近づくと、正面の町のシンボルであるスヴェティ・ドゥイェの鐘楼と、それを囲む宮殿跡が訪問者を出迎えてくれる。スプリットは首都ザグレブに次ぐクロアチア第二の都市だ。だがその起源は特殊性に満ちており、近代的な都市の中心部にはローマ時代にまでさかのぼる古い痕跡が数多く残されている世界遺産都市だ。
 地中海全域に版図を広げたローマ帝国は帝国内各地の有用人物を躊躇なく登用した。3世紀のディオクレアヌス帝は、サローナの出身だ。サローナは現在のソリン(Solin)で、スプリットの北5キロにある小さな町だが、当時はダルマチア地方の首府であった。

かつての宮殿は市民のアパートに

 ディオクレアヌスは引退後、サローナのすぐ近くの海沿いに作らせたほぼ200メートル四方の宮殿に隠居した。絵図によれば正方形の宮殿の一辺は岸壁のように海に面していて大変に壮観であったようだ。帝はその海に面した南面に居住し、北側に使用人を住まわせていたという。この力強い建築様式はその後に建設された海上都市ヴェネツィアの建築に大いに影響を与えたといわれている。

宮殿外周部の地下を抜ける通路には個性的なショップも

 サローナは7世紀に、スラブ人の手に落ちクロアチア都市となった。その時ローマ人は難民となって宮廷に住み着いた。これが都市としての始まりである。時はたち12世紀、ヴェネチアの力が強くなるとスプリットとサローナの力関係は逆転し、以後サローナは省みられることがなくなった。
 宮殿の前は埋め立てられて道路が走り、さらに大きな桟橋が作られているため、波しぶきを直接受けることはなくなった。また方形内部の大部分は新たに作り変えられて市街地となっている。しかし外周部の構造物は区切られ、補強されて、商店となり、市民のアパートとなって、1700年以上前の当時の姿を保ったまま生き続けている。

ローマ時代のまま残された中庭は現代でもイベントなどに使われている

つて海からくる船の入口であった、南側(海側)の青銅門跡から宮殿内へと向かう。外周部の建物の地下を抜ける巧みな構造の薄暗い通路は、現在は古代の雰囲気を生かした個性的なショッピングゾーンとなっている。
 再び地上に出たところが宮殿中庭のペリストリウムだ。周囲をコリントス式列柱に囲まれ、ローマ劇場風の装飾を施された青空劇場として、現在も夏のフェスティバルの時には最高の舞台となっている。

聖ドゥイェ教会の鐘楼

 右手はもともとディオクレアヌス廟であったものを後に大聖堂に改修したスヴェティ・ドゥイェ(Sv.Duje)、左手には今や他の建物に遮られて見えないがローマ神にささげたユピテル神殿が洗礼堂に改造されながらも残っている。

黒大理石のスフィンクスはエジプト製

 大聖堂の入口向かって左側を紀元前2世紀のエジプトで作られた黒大理石でできたスフィンクスが守り、さらに一段上の両側でサンマルコの獅子が睨みつけている。ヴェネチア領スパラートとして繁栄した時代の名残だ。鐘楼に登ると海に面した立地と宮殿の概要が手にとるように分かり、遺跡の周りに遥かに広がる新市街や周囲の山並みまで一望のもとだ。

鐘楼に登ると海を実感できる

殿内の敷地は一部の遺跡を除いて、中世から現代にかけて建築された建物でほぼ埋め尽くされており、歩いていると一般的な旧市街と何ら変わりない。しかし今も活気があり、西門の外にあたるナロドニ広場(Trg Narodni)周辺と共に、中世都市の魅力を余すとこなく伝えている。宮殿の陸の入口である、北門(金門)、東門(銀門)、西門(鉄門)もそれぞれ形跡をとどめているが、北門が比較的保存状態がよい。

鐘楼からの旧市街の眺め