"地中海,スペイン,アンダルシア,グラナダ,granada"
中世イスラム文化の中心地
Granada
グラナダ
(スペイン)♦♦
Centro
Storico

ルハンブラ宮殿(スペイン語でアランブラ)宮殿であまりにも有名なグラナダ(スペイン語でグラナーダ)は、人口20万人余りの意外とこじんまりした地方都市だ。数年の間にスペイン全土に領土を広げたイスラム教徒は、部族ごとの血で血を洗う抗争が続き、キリスト教徒の介入を受けて徐々に衰退していった。しかし小国であったナスル朝は周囲のイスラム教徒の亡命先として人力・財力を蓄え、かつカスティーリャとも協力しながらイスラム圏ととキリスト圏の緩衝地帯として独自の発展を遂げた。しかし急峻な地形に守られてきた小国は、カスティーリャ王国が本気で牙をむき出してきたときにはひとたまりもなく崩壊した。
 アルハンブラ宮殿は滅亡直前のナスル朝が立てた町を見下ろす丘の上の宮殿であり、当時世界最高のレベルにあったイスラム文化の粋を集めて作られた見事なものだ。特にパティオや14世紀のヘネラリフェ庭園の美しさは、現存するイスラム芸術の最高峰の一つといえるもので、宮殿は世界遺産に指定されている。カスティーリャ占領後にはやや異質なカルロス5世宮殿が追加され現在の姿になった。隣接するパルタル庭園内のモスクを改造したサンフランシスコ修道院は、現在パラドールとして宿泊が可能だ。

 15世紀後半から、カスティーリャは周囲の都市を次々と攻略しグラナダに迫った。1485年から1489年の間にロンダ、ロハ、マラガ、アルメリアがカスティーリャの手に落ちた。モロッコのマリーン朝、エジプトのマムルーク朝、トルコのオスマン朝への救援依頼も届かず、グラナダは1491年包囲された。7ヶ月の包囲選の末、食料の尽きたグラナダは降伏した。

 イスラム教徒は当初キリスト王のもとで不自由なく暮らせたが、1499年トレド司教の宗教弾圧下で反乱が続発した。そのため各種の権利は制限され、現在アルバイシンといわれる旧市街に閉じ込められた。16世紀に入るとカルロス5世はアラビア語やアラビア風の風習に課税したため、隠れムスリムとして生きるか、アフリカに亡命するものも多くなってきた。それでもアラブの伝統を消し去ることはできず、1567年フェリペ2世はハマムの完全閉鎖を命じ、アラブ文化を禁止した。これに呼応してアンダルシアでは2年間の反乱が続いたが、最終的に鎮圧され、モリスコ(スペイン語;イスラム教徒)は散り散りとなった。1609年にはフェリペ3世は全スペインでモリスコ狩りを行い、50〜100万人がアフリカへ亡命した。文化的基盤を失ったグラナダはその後往時の繁栄を取り戻すことは無く、地方都市として今日を迎えている。

ルバイシンと呼ばれる、ダロ川を挟んで宮殿と向かい合う丘はかつてのアラブ人居住区だったところだ。今では歴史ある邸宅やギャラリーがならぶ落ち着いた住宅街だが、入り組んだ路地や家々の作りにアラブの面影が強く感じられる。その上部にあるサン・ニコラス教会は、アルハンブラ宮殿のビュースポットとして有名だ。
 さらに川の上流のサクロモンテの丘の斜面にはジプシーが住んでいた岩窟が連なっており、古いガイドブックでは危険地帯とされているが、今ではフラメンコを見せる酒場タブラオが軒を連ねる観光スポットだ。


 付近の商店には、観光客を意識してか、ランプ、銀製品、布など、モロッコやチュニジアのスークで見られる商品と同じものが並べられている。また観光客を狙った物売りのジプシーが居るのもこの辺りだ。
 アルハンブラ宮殿の類まれな美しさは言うまでもないが、その影に隠れて意外と忘れられている、スペイン屈指の魅力を持つ市街地の見学も忘れたくはない。


 すっかり綺麗になったこれらの地区よりも、むしろ大聖堂周辺の薄汚い新市街の方に昔日の面影が感じられるのは皮肉なものだ。
 キリスト教国になった後も、建築技術に優れたアラブ人の手により街づくりが続けられたため、建物や門のつくりはムデハル様式(アラブ風)だ。
 喧騒に埋もれ全容を見せてはくれない大聖堂は、近くにあるのに意外と気づかなかったりする。数々のアラブ風の歴史的な建物に加え、再建されたアル・カイセリア(アラブ式市場)はアラブのスークと何ら変わりなく、異国情緒たっぷりだ。